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その時歴史が動いた 

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震災から一年目(後編)。 

6月28日

これは去年の春、撮影した神田川の桜・・・



こっちは今年、全く同じ場所で神田川の桜を撮影したものです・・・



多少天候の違いなどはあるものの、どちらも実に見事な桜でしょ?

「震災から一年目」と題して

3月に前編、中編を書いてから、後編を書かずにずっとほったらかしにしていたのですが

管理人から「ちゃんと完結せなアカンやろ」と怒られてしまいまして・・・

私としては「別に完結させなくても・・・だってホラ、まだなにも終わったわけじゃないし」という思いがあり

だから「後編(完結編)」はなくてもいいんじゃないの?・・・とさえ思っていたのですが・・・反省しました。

まあこの辺で一旦気持ちの整理というか

去年の今頃はどんなことを考え、何をしていたのかとか

忘れないうちにちょっと記録しておこうと思います。


去年の夏といえば

川崎市民ミュージアムで開催された実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)監督回顧展に資料協力したり、電エースの撮影があったりして、外から見たら表面的にはけっこう楽しく忙しそうに走り回ってるように見えたかもしれません。

しかし内心はまったく逆で、不安と焦りでかなり疲れて落ち込んでいました。

その落ち込みは、スランプとか鬱(うつ)とかとはまたちょっと違うタイプのものなのですが・・・

その頃、テレビをつけても雑誌を読んでも、どっちをむいても「復興」とか「絆」とか「いま私たちにできること・・・」とか

そういう立派なキーワードが「合言葉」のように世の中にいっぱい渦巻いていました。

端的に言うと私はその渦に呑まれてしまったのです。

「いま私にできること・・・」は何なのか?と、私も真剣に考えました。

でも真剣に考えれば考えるほど、できることの無さ・・・「無力感」に苛まれました。

私が漫画を描いて「人のためにできること・・・」って何だろう?

実はほとんど何もないじゃないか・・・と。

例えば、それが売れっ子の漫画家先生だったら寄附をしたり、被災地へ行ってチャリティサイン会をやったりして、被災地の人たちを助けたり励ましたりすることもできるでしょう。

しかし私は「そういう漫画家」ではない。

少なくともあの時点で、ほかの人を支援できるような余力は私にはありませんでした。

震災のために予定されていた仕事が立て続けに仕切り直し(という名の「キャンセル」)となり

講師をしている専門学校も授業日数が大幅に短縮になって

想定外の収入減で、私自身が助けてもらいたい・・・というか、どうにかしなければならないという状態だったんです。

だから一生懸命机に向かって漫画を描こうとしました。

そんな、気持ちに余裕のない状態でいい漫画なんか描けるわけがないんですが、ほかに手だてもなかったし・・・

案の定、そう簡単にスムーズにはできませんでした。

描き始めると、やっぱりどうしても震災とか原発とか・・・その被害に遭われた人たちのことを考えてしまう。

それを避けては通れません。

だって、被災された人たちが私の漫画を読むかもしれないから。

できることならそういう人たちを私の漫画で励ましたい

そういうことができたらいいなと思いました。

でもそういうメッセージを漫画の中に盛り込もうとすればするほど・・・なんだかまどろっこしい、お説教くさい・・・

どこか「重たい」漫画になってしまいました。

だから描いては直し、また描いては直しを繰り返し・・・そんな状態が半年くらい続いて・・・そこからなかなか抜け出せず、本当に悩みに悩み抜きました。

それでも「自分にしかできないこと」が私には見つかりませんでした。

そんな感じで、もうさすがにくたびれ果ててしまった頃、試しにその、お説教くさい部分を全部取っ払ってみたらどうなるんだろうと思って・・・その方向で再構成してみたら

すごく整理されてスッキリした、読みやすい漫画になったんですね。

愕然としました。

私はものすごい大事なこと・・・漫画というものの本質を忘れていたのです。

それは「漫画は気晴らしに読むもの」だということ。

「みんな立派なことをしているんだから自分も人のためになるようなものを描かなければ」という妙な使命感に縛られて、何か重要なメッセージを作品に込めよう込めようとし過ぎました。

その結果私の漫画は「気軽に読めない」ものになってしまっていたのです。

物語の面白さよりもテーマが先に来てしまっている・・・そんな感じでした。

でも、悩みに悩み抜いたその半年間は無駄な時間ではありませんでした。

その後描いた『はやぶさ・・・』のコミカライズが、ゼロの状態から100日で脱稿まで持っていけたのは、描いている最中「悩まなかったから」です。

いちいち悩みながら描いていたら、きっと間に合わなかったでしょう。

昨年は、春に友人の漫画家はぬま・あん氏が、夏に中学時代の後輩が病気で相次いで天に旅立ちました。

自分と年齢の近い知り合いが亡くなるのはかなりショックでした。

神田川の桜を見ながら「自分はあと何回くらいこの桜を見ることができるのかなぁ?」と考えました。

子供の頃から住んでいて見慣れた風景を見て、そんな気持ちになったのは初めてのことでした。

これから歳を重ねるにつれてますます「ああ、今年もこの桜が見られてよかったのぉ」とか、感じるようになっていくんでしょうかね?

もちろん、これからの日本のことを思うと、桜の花のように綺麗事ではすまない・・・それくらいのことは百も承知しています。

福島第一が再爆発したり

富士山が噴火したりして

放射能や火山灰が降り注ぎ都市機能が麻痺して全都民避難・・・なんてことにでもなったら

神田川の桜はもう見られない・・・というか、お花見どころではなくなるでしょう。

(ああ・・・そうなったら多分漫画家も失業だな・・・)

そんなことは「絶対ない」とは言い切れません。

だって「絶対安全」「絶対ない」と言われてきた国内原発事故が実際に起きたんだから。

それでも

何が起こったとしても

命ある限りは生きていかなければなりません。

たとえ噴火や原発の二次災害が起きなかったとしても

売ることも棄てることもリサイクルすることも自力ではできない原子燃料と核のゴミを、これから何万年も抱えて、日本人はそれと同居していかなきゃならないんです。

それでも生きていかなければなりません。

私は神田川の桜を見て、去年やその前の年と同じように「変わらず」咲き続けている姿に安堵を覚えました。

それを取り巻く世界の環境は大きく変わってしまいましたが、そんな変化の中で「変わらず」にいることが見る者を安堵させることもあるんだ、ということを知りました。

私の漫画も、どこかで知らない誰かの心を癒しているのでしょうか?

私の漫画がひと時でも、ホッと誰かの気晴らしになってくれていたら、こんな素晴らしいことはありません。

最後に

皆さんご存知のとおり、桜は落葉樹なので秋から冬にかけて葉を落とし、枝ぶりが丸裸になります。

神田川の桜並木も全部葉が落ちて殺伐とした風景になります。

お花見シーズンには大量の花見客でごった返す新江戸川公園も冬場は閑散としています。

大多数の人は、桜といえばお花見という感じで、花が咲いた時の桜をイメージすることでしょう。

しかし、一年の間で桜が花をつけている時間などごく僅かに過ぎません。

その後新緑の季節を迎え、秋には紅葉して、桜は一年中私たちの目を楽しませてくれます。

まあ落ち葉を掃除したりするのは大変ですけど・・・

冬場の桜はそういう「イベント」が全部終わってしまって、華やかさこそないんですが

冬の寒さにジッと耐えながら、次のシーズンを始めるための準備を着々と進めている・・・

そんな凛とした緊張感があります。

私は花が咲いた桜も好きですが、冬の桜が一番好きです。

(終わり) 
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2012/06/29 00:52|東日本大震災CM:0

震災から一年目(中編)。 

3月13日

自宅に帰り着いたのは震災翌日の昼間。

まずやったことはその日の寝床を確保するため、散乱した家具や荷物の下から布団を発掘することでした。

これはその時の写真。



20年以上前から張りっぱなしの永井真理子(ながい・まりこ)のポスターが痛々しいですな。

それはそうと…

地震の翌々日

テレビを見ながら部屋の片付けをしていたら

福島第一原発が(水素)爆発する映像が流れてきて…

その時の気持ちったら

「ああ、とうとうやっちゃったんだ、来るべき時が来たんだなぁ」と…

前々からいつかはこういう日が来るんじゃないかと、うっすら覚悟はしていたのですが、いざ実際に起きてみると

まったくもって絶望的な気分になりました。

次の瞬間、私の頭の中は

「さて…全都避難命令が出たら何を持って、どこへ逃げよう?避難命令が出るまでどのくらい猶予があるんだろう?ああ、仕事場の住宅ローンがまだ残ってるのに…放射能汚染で住めなくなってもローンだけは払わなきゃならない…みたいなことになったらどうしよう?ああ、どうしようどうしよう…」と

被災地の心配より、まずこれから自分の身に降りかかってくるであろう心配…

とにかくどこかに逃げる考えで、いっぱいいっぱいになってしまいました。

冷静に考えてみたら

逃げ場なんかどこにもないんですけどね。

日本は北にも南にも原発があるし

地震はおさまりそうにもないし

逃げたとしても行ったその先でまた爆発とか

福島第一と同じようなことが起こるかもしれない…

そういえば昨日、お隣りの国の釜山(プサン)の原発で12分間に渡って全電源が喪失するという事故があったらしいとニュースでやっていましたから

我が国に限らず、安全な場所なんて世界のどこにも存在しないのかもしれません。

結局私は避難しませんでした。

というか、お金がなくて逃げられなかっただけなんですが。

震災の影響で、予定されていた仕事が見直しになってしまったり、学校の授業も大幅に授業日数が減ったりして…仕事(つまり収入源)が無くなってしまったんですね。

だから『はやぶさ…』の仕事を(多少無茶なスケジュールだったとしても)受けた…

という経緯はあったのですが、『はやぶさ…』の仕事が入って(そのお金が入って)くるまでの約8ケ月間は本当に苦しみました。

いまも実はかなり無茶なスケジュールの仕事を抱えこんでいて、こんな長々とブログ日記とか書いてる場合ではないのですが

去年のあの8ケ月間の苦しみを考えたら、仕事があるってホントにありがたいなと思います。

(続く) 
2012/03/13 23:17|東日本大震災TB:0CM:0

震災から一年目(前編)。 

3月11日

あの日からちょうど一年が経ちました。

去年の3月11日

私が被災したところは、非常勤講師を務めている八王子の専門学校(の教室)。

もう通常授業は終了していたのですが、その日はたまたま会議で登校していたんですね。

そしたら未提出課題を抱えた2年生が空き教室を使って必死こいて課題をやっていると聞いたので、わざわざ覗きに行って

「オラオラ、ちんたらやってたら卒業できなくなっちまうぞ、早くやれ早く、わはははは」と面白がって生徒たちを嬲って(なぶって)いたらドドーンと揺れが来たんですね。

揺れがおさまってから、とりあえず校舎の外へ出て待機するよう校内放送で指示されたので

生徒を誘導しながら、学校の中庭に出て撮ったのがこの写真です。



地震の規模も震源地も…とにかくなにが起こったのか、まったくわからない状況だった(しかし尋常な地震ではなかったことだけはわかった)ので

とにかくテレビ(ワンセグだと切れる可能性があるので有線)のあるところへ移動して(といっても学校にはあんまりテレビ置いてなかったんですが)情報を仕入れたかったんですが、それはできませんでした。

担任は連絡のために走ってどこかへ行ってしまうし…置き去りにされた生徒たちが私のことを見るわけです

「先生、私たちどうしたらいいんですか?」って。

「そらぁ、俺が聞きたいよ」って言葉が喉元まで出かかったんですがね

そこはぐっとこらえて

「状況がわからないんだから、ひとまず落ち着いてね…揺れの大きさから言って電車は全線ストップしてるはずだから、事態がある程度落ち着くまでは学校で待機してた方がいいと思うよ。家が近くで帰宅できる人は帰ってもいいと思うけれど、担任に帰りますってひとこと報告してから帰りなさい。」とか

そんな感じで生徒が動揺しないようになだめたりしながら指示していました。

こういう時に先生が勝手な振る舞いをしたりすると、生徒が真似して混乱の原因になりますし

怯えて具合いが悪くなったりする生徒も出てきますから

体も大きいことだし、ここはどっしり構えてみんなに安心感を与えないと…と思ってじっと堪えていました。


しかし本心では

一刻も早く!
テレビのあるところに移動したい!

いま、学校の外の世界はどうなってんの!?と思ってソワソワしていました。

それくらい、学校内では一見して被害が目にみえず、大きな地震だったことがビジュアルとしてピンとこなかったんですね。

まさか全国的にあんな大きな被害が出ていて

その後その被害があれほどまでに拡大していくとは

その時は全く想像もしていませんでした。

確実にわかっていたのは「ああ、あの揺れだと中央線は復旧に時間がかかって今日はもう自宅には帰れないだろうな」ということくらい。

その後、避難場所として学校から提供された学食へ移動し、ノートパソコンを開いている人のモニターを後ろからチラ見していたら…

ひらべったいコンクリートの地面の上を、「食玩のヘリコプターや自家用ジェット機」をたくさん巻き込んだ「具だくさんのフカヒレスープ(のように私には見えた)」が一斉にダーッと流れていく

そんな感じの映像が写し出されていて

…その映像が仙台空港の様子だったということは、翌日家に帰ってからテレビで見てわかったのですが

それが私が初めて見た東日本大震災における津波のビジュアルでした。


(続く) 
2012/03/11 13:15|東日本大震災TB:0CM:0

私にできること。 

3月29日

私にできること…

とりあえず、日記書きます。

全然日記が更新できてなくて申し訳ありませんでした。

早いもので…「あの日」からもう2週間以上が過ぎ節電で夜が妙に薄暗い以外は、交通や物流を含む以前の日常生活…

平安が少しづつですが街に戻ってきているような…そんな気がします。

もちろん、その平和は「見せかけにすぎない」のではあるのですが、その話は、今回は一旦置いておいて

私もようやく仕事場の片付けがひと段落した感じで仕事を再開し始めましたが…

花粉と崩れた荷物から舞い上がったハウスダストによる鼻づまり&くしゃみと戦いながら…

ここまで復旧するまでには結構苦労しました。

まぁ、東北の方々の苦労を考えたら私の苦労など苦労の内には入りませんが…。


2011年3月11日午後2時46分…

東北から関東にかけての広い地域を襲った未曾有の大地震…

現時点で「東北関東大震災」とか「東日本大震災」と呼ばれているその地震は、自然の猛威に対し人間がいかに無力であるかを見せつけました。

私は、講師をしている八王子の専門学校で自らのその力の無さを思い知らされていました。

地震の影響ですべての交通機関が一斉にストップし、いわゆる帰宅困難者になってしまったからです。

私は臨時宿泊所として解放された学生食堂で、学生たちと一緒に交通機関の復旧を待ちました。

しかし、地震の被害については「確かに激しい揺れだったけど、いったいどのくらいの規模だったのかなぁ?」と

学校にはテレビやラジオがなく、ケータイはつながりにくく、ノートパソコンを持参した生徒や職員から少しづつ漏れ聞こえてくる又聞き情報だけではマグニチュード 9.0という地震の大きさが、私にはいまひとつ実感できていませんでした。

夕方くらいからネットなどを通じて各地の被害情報が徐々に明らかになってきたのを、職員の人がノートパソコンでチェックしていたのを後ろからのぞき見していたのですが

私には、千葉のガスタンクが爆発しているところも仙台空港の滑走路が津波に呑まれていく光景もなんだか特撮映画の1シーンのように見えてしまって…

こんな被害が実際に起きているなんて俄かには信じられませんでした。

夜中、京王線や西武線といった私鉄が日をまたぐ前くらいの時間から徐々に復旧し始めました(JRが運転再開したのは翌朝)。

その時点で、無理して家に帰ろうと思えばなんとか帰れないこともなかったのですが…

「今日、帰ってきても寝るトコないよ」

と嫁さんから電話で聞かされて相談した末、私は学食で一晩寝て体力を温存し、翌朝学校近くのデニーズでしっかり朝食をとってから自宅へと戻ることにしました。


3月12日の昼、帰宅。

前日、嫁さんからメールで送られてきた写真を見て覚悟はできていたのですが…

自宅はいっぺん逆さまにしてから元に戻したような…すごい有様になっていました。





八王子では地震の情報を断片的にしか知ることができなかったので、すぐテレビを点けて見たかったのですが…

テレビはテレビ台の上から転がり落ちて、先に棚の上から床に落ちた『スターウォーズ』のダースモールのスピーダーバイクのフィギュアを下敷きにしてパッケージをグシャグシャに潰していました。

「……………。」

…と、私は自分のグッズがパーになったのを見て一瞬完全に思考が一時停止してしまったのですが…

次の瞬間

「これがもし嫁さんだったら」

と思って、背筋が凍りつきました。

後でテレビを見て、その可能性が十二分にあったことがわかり、なおさら戦慄しました。

それから、捨てたり積み直したり…

3日くらいかけて部屋は大体元の状態に戻りました。



まだこの他に、仕事場はさらにひどいことになっていたのですが…それは置いておいて

もっとひどい被害に会われた方々には申し訳ないのですが

本当に、この程度の被害で済んだ私は幸運でした。

とりあえず

神戸在住の俳優、堀内正美(ほりうち まさみ)さんが呼びかけている民間の支援団体『阪神淡路大震災 1/17 希望の灯』を通じて、ささやかな額ですが募金に参加させていただきました。

他に私に何ができるのか…

いまパッと具体的には思い浮かばない…というのが現状ですが

他にも何かできることがきっとあるはず、と思って

何ができるのか?できることをこれから一生懸命考えます。 
2011/03/29 07:45|東日本大震災TB:0CM:0

ご心配おかけ致しました。 

3月14日

皆様、ご心配おかけ致しまして申し訳ございませんでした。

地震から3日。

ようやく身の回りの整理が進んできて簡単な報告を書くことができます。

私は、とりあえず大きな怪我をすることもなく無事です。

私の家族、肉親からも今のところ悲しいお知らせは届いていませんので、ひとまず胸を撫で下ろしているところです。

しかし

被災された東北地方の皆さんの惨状を思うと

その被害のあまりの大きさに、胸が締め付けられます。

言葉が見つかりません。
頑張ってくださいとしか…。
申し訳ありません。

私がこんなに大きな地震だということを知ったのは、実は地震があった次の日でした。

まず、その辺から少しずつ書きます。

地震のあった金曜日は、学校で職員会議があって非常勤講師の私も八王子の学校へ出勤していました。

会議が終わって、午後3時頃

卒業生なのに、まだ課題の提出ノルマを果たしていない学生が多数登校してやっていると聞いたので「どれどれ?」と様子を伺いに教室を覗きに行きました。

まさにその時、

教室が揺れ始めました。

学校で地震に会うのは初めてではなかったので「まぁすぐ止むだろう」と思っていました。

ところが、揺れはだんだん激しく大きくなってくる…

さすがに「これはやばいかな?」という揺れ方になってきた時、私がまず真っ先にとった行動は

各教室を廻って「机の下に隠れて!頭を出さないようにね」と、生徒を避難させることでした。

自分で思いました。

「なんだ、これじゃまるで学校の先生みたいじゃないか」と。

いや、学校の先生なんですが

そういう行動を自分がとれたということが、自分自身ちょっと意外だったものですから

「へぇ、いざとなったら俺こんなこともできるんだ」と、

ちょっと自分で感心してしまいました。

ただ…そこからが大変でした。

ふっと気がつくと

生徒は全員机の下に隠れて教室はまるで無人のよう…

あれ?それを見ている「俺はなにしてんの?いや…どうしたらいいの?」

自分自身の安全確保についてはまったく考えていなかったんですね。

それで「いかん!」と思ってあわてて廊下に飛び出しました。

なんで廊下に出ようと思ったのかは…わかりません、覚えていません。

廊下では割れはしませんでしたが窓がバシンバシン轟音を響かせながら波打っていました。

「いかん、いまこの窓が割れたら、ガラスが刺さって俺はガラスのハリネズミみたいになってしまうのではないか!?…

ん、そういえば漫画でそういうシーンを見たことが…

あれは…バイオレンス・ジャックだったっけ、いや、はだしのゲン…は地震じゃないか」


とか考えているうちに、揺れはますます激しくなってきました。

教室が6階にあったせいか、揺れは多分地上より激しかったと思います。

ほとんど立っていられないほどの揺れの中、なんとか転倒するまいと、私は廊下でたった一人…必死でマヌケな死の踊りを舞っていました。

「座り込んだらきっと立ち上がれなくなる、そしたら逃げられなくなる、なんとか倒れないようにするんだ…

ああ、壁に捕まりたい…いや、壁が崩れてきたらどうする?

ここ(その時私のいた校舎)は校内でも一番古い一番老朽化している校舎なんだ…このまま揺れが続いたら倒壊するかも…

ああ、そういえばこんな場面を去年漫画で描いたっけ(『コミック帝国ホテル』の関東大震災のシーン)…とか言ってる場合じゃない!

いまにも天井から蛍光灯が落ちてきそうだ…

こ、怖い!そうか、俺も教壇の下に隠れればよかった。

どうして廊下に飛び出してきてしまったんだろう…失敗した、また失敗した…俺の人生はまさに失敗の連続だ。

はははは…ああ、今頃実家も仕事場もひどいことになっているだろうなぁ…

この揺れでは、本もフィギュアもDVDもみんな棚から飛び出してグチャグチャになってるだろう。

かたづけ…大変だろうなぁ…

いや、それより嫁は大丈夫だろうか?

アイツは夜型だから…いまのじかんはもしかしたらまだ寝てる可能性がある…

アイツの寝床の横の棚の上には…『ガンダム』と『ダイヤモンド・アイ』の全話LDボックスが…

アレが頭の上から落ちてきたら、ひとたまりもあるまい…

スマン、俺の嫁になったばっかりに…そんな惨たらしい最後を迎えなければならないとはな…

許してくれ、俺を許してくれ…」


人間、本当にいざとなると一瞬のうちにいろんなことを考えるもので…作り一切無しで…冗談ではなく、一瞬本当に自分の最後を覚悟しました。

しかし

校舎はヒビが入ることも窓が割れることもなく、なんとか地震の揺れに持ちこたえてくれました(私がいた校舎以外では一部破損があったようですが)。

後でわかったことですが、嫁さんも揺れ始めた時に危険を感じ寝床から飛び出してくれたおかげで、危うく難を逃れました。

揺れがおさまって、緊急避難放送が入り私と生徒たちは学校の指示で校舎の外へ出ました。

校内にはテレビがないので、ケータイのワンセグ機能で地震の状況や規模をチェックしている生徒がたくさんいましたが、皆が一斉にアクセスしたために電波状態が悪くなり、なかなかうまく繋がらなかったようです。

学校はとりあえず生徒を安全に帰宅させる方法をあれこれ調べて検討しましたが、電車が全面ストップしてしまうと、ほとんど陸の孤島になってしまうのがウチの学校の難点です。

で、結局

私はそのまま学校内で一夜をあかし、翌日のお昼に家にたどりついたのでした。

(続く)

 
2011/03/14 04:25|東日本大震災TB:0CM:0

自画像 

加藤 礼次朗

Author:加藤 礼次朗
1966年3月8日生まれ。
職業:漫画家。

1986年描き下ろし単行本
『まんが音楽家ストーリー ベートーベン』でデビュー。

映像界では、イラストや友情エキストラ(出演)、2007年にはオペラ「魔笛」の衣装デザインを手がけるなど漫画界以外でも幅広い活動をしている。

 

コミック版『はやぶさ 遙かなる帰還』 

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夏目漱石の「三四郎」 

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まんが音楽家ストーリー3 

ベートーベン
 

まんが音楽家ストーリー8 

バイエル
 

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